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愛情狂言

 

 

 

 

 

「くっそう、一向に情報が掴めやしない……」

 昔、アダムとイヴはエデンを追われた。蛇に唆されたイヴが、禁断の果実に手を伸ばし、アダムにそれを勧めたからだ。罰として蛇もまた、その勇壮で美しい姿を失い、地を這う生き物へと変えられてしまった。女に果実を口にさせた時、蛇は何を思ったのだろうか。

「俺はねぇ、愛していたんだと思うよ」

 俯いていたせいでずれた眼鏡を押し上げ、分厚い革の古代書を閉じる。褪せた色が歴史を感じさせ、鞣された革は手に吸い付くようだった。その感触を手のひらで楽しみ、違う色で飾られ、そこだけ窪んだ本のタイトルを指先でそっとなぞる。鱗に覆われた手では、革を傷つけかねないから本当に優しく。同時に、足を動かす。それに合わせて呻き声が部屋の中に響いた。声のする足元へと視線を下ろし、首を傾げた。

「そう思わないか、エヴァ」

 呻き声、というのには語弊があるだろう。彼が上げているのは、喘ぎ声、そして、唸り声だ。ぐりぐりと素足で彼のズボンを押し上げるものを擦り上げ、踏みしだく。赤く染まった頬に、荒い息。媚薬を盛られて、本意でないのにもかかわらず欲情させられ、なんて滑稽なのだろう。緑の前髪の下からこちらを睨む鋭い瞳は、血を垂らしたルビーのような紅。そこに映る感情は、屈辱と、羞恥と、憎悪。美しく気高い彼が汚れた感情に彩られることに、そして汚しているのが自分だということに、仄暗い快感が走る。長く尖った耳から頬を鱗に覆われた尻尾で撫で下ろせば、快楽により震えたのが伝わってくる。

「エヴァ、気持ちいいか」

 不快そうに歪められた顔が、またいい。太陽の下で輝く彼を、俺はこの暗い部屋に閉じ込めた。

 

 

 エヴァ、正式にはイブ・ノーヴェンは、俺、アダム・ディセントにとって絶対と呼ぶべき存在だった。それは、物心がようやくついたような幼い頃から。彼は花の咲いたような笑みを浮かべる子どもだった。大人も子どもも、無邪気で陽気で、快活な彼を愛していた。フロールと呼ばれる植物系亜人種である彼は、陽の光がよく似合った。対する俺は、蛇系の種族のラミアと人との交配でできた出来損ないで、蛇の特性で光に弱く、日中外に出られないことも相まってすっかり本の虫。幼馴染とはいえ、共通点など一つもなかった。しかし気がつけば共にいた。田舎にある故郷を離れ街に一人旅立つまで、彼が俺の傍に居続けたのは、同情だったのか、本当に友情だったのか。どちらにせよ、彼は俺の唯一で、絶対だった。その彼が、奴隷になっているなど考えもつかなかった。

「ほぉんと、有り金叩いて買ってよかったよ」

 光の差さない暗い部屋の中、俺のところまで堕ちてきた彼は、はじめのうちは俺に噛み付いてきた。眼鏡をいくつも駄目にするような激しい抵抗を繰り返したけれど、何を喚こうとどうしようもないことを知るなり、彼はその口を閉ざした。声は出ずとも、俺の下で、その鮮やかな瞳を閉じ、歯を食いしばっている顔には確実に快感が滲んでいる。

「エヴァ、ここも、顔も、イヤラシイ。そんなにイイの?」

 ローションでぐちゅぐちゅと淫らな音を立てる結合部を尻尾でなぞれば、爬虫類の低体温に驚いたのか、そこがぎゅっと締まった。それを揶揄すると、見開かれた瞳が憎悪で燃える。ぎゅっと唇が噛まれた。

「駄目、俺の物を傷つけないで」

 その唇を優しく撫でれば、思っているより素直にその唇が開かれた。それを見計らってキスをする。噛み付かれる位は覚悟の上で舌を絡める。口の中で混ざる唾液をわざと彼の口内に送り込む。俺の唾液が、彼の物と混ざり合い、彼の喉を下って取り込まれて体の一部に変わる。内側から彼を、作り替えていく。

「ッ……」

 体がぎゅっとこわばり、声もなく彼は達した。その締め付けで自分も彼の中に精を吐き出す。ずるりと自分の物を中から引きずり出し、彼のモノにつけていたコンドームを外す。

「あーん」

 逆さにして中身を口の中に流し込む。生ぬるくて粘ついて、青臭くて苦い。ねっとりと絡みつくそれを口の中で転がし、喉に押し込む。

「エーヴァ、男に犯されてイかされて気分はどぉ」

 彼が向ける目は嫌悪と憎しみに満ちていた。最初にこうしたときには、嘔吐すらした。それでいい。それでも俺から逃げられないと思うと、今すぐ踊りだしたい気分になった。彼の目は、それでも俺から離せない。


 

「最近、付き合い悪ぃな」

「とかなんとか言って、神居、お前は俺に仕事押し付けたいだけだろう」

 頼まれていた書類の入った封筒を机に置いた。人間のくせに、彼はこの事務所で人外専門のよろずやを開いており、時々法律家もどきのモノに発注するしかない仕事が出てくる。この法もへったくれもないような世の中でも、一応形だけの書類が存在する。

「身分変更の資料なんて集めてどうするんだ、奴隷からの依頼か?」

「いや、今回は別件、私用だ。うちのイガードを、そろそろ奴隷の身分から解放してやりたくて」

 愛しのイガードか、とからかうが、彼はコーヒーをすすり、微笑むだけだった。イガードが淹れて持ってきたコーヒーの横、山になっていた角砂糖は、甘党の彼がほとんど使い切った。およそコーヒーなどと言えないそれを、よく飲むものだ。見ているだけで口の中が甘ったるくなり、胸焼けがしそうだった。

 愛する人が自分の奴隷で、お互い想い合っているのにどうしてあえてその鎖を外すのか。理解ができなかった。俺なら、絶対に離したりなんかしない。その奴隷の権利書を大事にしまっておく。確実、そして絶対の関係をやめる必要性など、どこにあるのだろうか。そう言ったら、だからこそ鎖を外すのだと怒られるだろうか。どれほど想っても、どれほど傍にいても、結局ふとしたことですれ違い、失う。幸せになってくれればそれでいいなどと綺麗事をいう神居は、エヴァと似ているが故に愛着もあり、また憎らしい。キラキラと輝く金髪は、太陽によく似た彼の性格のようで目障りだった。

「神居、お前は本当に純粋だな」

「んなこたねえよ。なんの肩書きもないイガードに、主人じゃなくても愛してるって言われたいだけの大馬鹿野郎だ」

 彼はコーヒーを淹れ直してきた、筋骨隆々とした多眼の人外に目を向けた。セクシーで野性味と色気溢れる彼が今の神居の恋人だ。神居が伸ばした手はコーヒーを置いた銀のプレートを素通りし、彼の首元へ回される。

「奴隷やめたところで、身も心も俺のモノなのは変わらないんだろうけどな」

 引き寄せて頬に口付けをする神居を押しのけ、イガードが赤い顔でその頭を引っぱたいた。

「コーヒー溢れるだろう、危ねぇな」

 カップをソーサーに置くと、硬質な音が響いた。ソファから立ち上がる。

「飯買わなきゃならないから帰る。そろそろ店仕舞いの時間だろう」

 こんな茶番を見ていたところで時間の無駄だった。俺は、彼らのようになることはない。

 


 

 別に、俺とて最初から全てを捨てて、彼を手に入れた訳ではない。奴隷市場であの「花」を見て、勢いのまま競り落として、そしてとうとう目の前に「商品」として手渡されるまで、まず初めになんと言おうかと考え続けていた。それは、大丈夫だ、か、久しぶり、か。とりあえず、彼を追いかけてきた街でようやく見つけた相手に対して悪意のあるものではなかったはずだ。けれど、その瞳を見て、声を聴いて、俺の口から突いて出たのは全く違うものだった。

 俺の顔を見た彼は、なんでお前が、と呟き、一瞬の絶望に彩られた表情から一変し、憎悪に、拒絶に満ちていった。その瞳は俺を映さなかった。なんで、どうして。俺は彼を追いかけて来るくらい、彼のことしか考えていないのに。俺はずっと、ずっとずっとずっとずっとずっとずっと、エヴァを、エヴァだけを想って生きてきたのに。首輪の鍵が指先からすり抜け、地面とぶつかり硬質な音を立てた。笑いが溢れた。今まで浮かべたことのない歪んだ笑いだった。力いっぱい彼の首に繋がった鎖を引き寄せ、その頭を掴んだ。見開かれた赤い瞳に映る狂気じみた顔は、醜かった。

「お前は、俺のものだ」

 俺の口からついて出たのは、諦め。あの日、俺は、愛されるのを諦めた。手に入れられれば、それでいいのだと思った。街の中を見せびらかすように、しかしその実鎖で引き摺るようにして家に連れ帰って、彼の叫び声を心地よくすら感じながら、彼が力尽きて意識を失うまで犯し続けた。


 

 あの日以来、俺の書斎は檻に変わった。仕事用の応接間の奥のドアを開ければ真っ暗な部屋がある。夜は当たり前だが、昼間でもカーテンは閉じられ、日の光は差さない。肌も目も、日光を拒絶する俺には、そんな部屋が一番過ごしやすい。けれど、一番奥の書斎にいる彼にとってはそんな真っ暗な世界は辛いのだろう。ドアの向こう、首輪を鎖で繋がれ、手錠を嵌められ、床に横たわる彼は、食事は満足にしているはずだがやつれていた。抵抗したせいで手首に、首に、擦り傷ができている。植物は水と光と大地が無ければ生きていけない。彼のその姿は哀れで涙を誘い、悲惨だった。

「ああ、可哀想に」

「……」

 近づいてその髪を撫でる。艶やかなそれが、色を失って見えるのは光の加減だろうか。元より夜の闇のような色をした俺の髪と違い、夏の新緑のような色をしているはずなのに。指のあいだを滑るそれをしばらく楽しみ、それから、しっかりと掴み強引に引き寄せた。噛み付くようにキスをしながら、彼のズボンの前をくつろげる。

「ねぇ、エヴァは俺相手でも勃つの?」

 大きく口を開き、取り出したモノを口に含む。まだ一切反応を見せていないそれを舐め上げ、唾液を絡める。彼のものだと思うと、それだけで興奮してくる。自らも服を脱ぎ、流れ落ちてきた唾液でべとべとな指を後ろに這わせる。

「ね、ココに頂戴」

 ゆるゆると勃ち上がり始めたそれに、息が上がる。彼の眼差しは相変わらず鋭い。ぞくぞくと背筋を這うのは悦びだろう。放り出してあったローションを手に取り、指を内側に埋めると、体温の低い自分でも、熱い部分があるのだな、と冷静に思った。何かを入れるような場所ではないところに指を入れることに、抵抗がない訳ではなかったが、異物感は酷いもののそれほど苦痛ではなかった。眉を寄せないように気をつけながら内側を掻き回せば、徐々に抵抗はなくなり、指への締めつけも緩和されてくる。この程度でいいか、と慣らすのもそこそこにエヴァの体に跨り、ゆっくりと腰を下ろす。強烈な圧迫感と共に、ぬぷり、と彼自身が体内へと入ってくる感触。止まりそうになる息を、少しずつ吐き出し、笑う。俺の中に、彼がいる。俺の粘膜を押し広げて、そこにある。

「あっはっ、入っちゃった、これから男にイかされるんだ、わかるか、エヴァ」

 掠れた惨めな声。内側を犯す熱にうかされ、潤んだ世界で、視界に映る赤と緑に見とれる。彼は困惑した顔をしていた。

「俺に喰われるとは思わなかった? こんな風に発情して、恥ずかしくないの?」

 いいところに当たらないように気をつけながら腰を振った。彼が中にいるというそれだけのことで興奮し、快楽を覚えるというのに、これ以上の刺激が加わったら意識が飛びそうだった。この二人だけの世界で、唾液を交わし、体を重ねる、俺には元々彼しかなく、今や彼には俺しかない。うっとりと彼を抱きしめる。彼の目は、冷め切っていて、心がざわついた。


 

 狂気、といえば狂気なのかもしれない。昔付き合っていた者達に、何度自分を大事にしろと言われたか。放っておくと食事もしない、睡眠も取らない、生活習慣がなっていない俺に、皆世話を焼いた。自分に無頓着で無気力な自覚位はあった。だから俺は毎回、一言だけ答えた。

『なら、その分も大事にして』

 エヴァは、俺ができないことを、全部やってくれた。いじめられれば代わりに怒った。病気の時は代わりに泣いた。嬉しい時は、代わりに笑た。不器用な俺の代わりに、大事にしてくれると言った。自分では嫌いで仕方ない自身を、愛しいと言った。そんな若い頃の戯言を信じたフリをして、自らを弄ぶ。そんなことをしてもエヴァは帰ってこないのに。そのせいだけではないが、付き合いきれないとばかりに皆、俺のもとを去った。手元から彼らが失われることには、なんの苦痛も不安もなかった。どれほど愛されていようと、大事にされようと、それが彼でなければ何の意味もなかった。その中に神居もいた。未だに神居は俺に目をかけてくれるけれども、それもまたどうでもいい話。エヴァ以外は、どうでもいい。


 

 彼は、俺を見ない。彼は、見なくなった。

「エヴァ」

 いつからか、呼んでも、犯しても、犯させても、何しても。睨むことすらもなくなり、諦めたようにその目は空を見つめる。全てに興味がないとでも言わんばかりに、ただ、無表情で無言。彼のその目は、このたった二人の世界で、それでも、俺を映さない。今、こうして彼の上に跨っていても。体は反応しているのに、彼の心はここにはない。俺の熱だけがそこにある。

「どうして、俺を見てくれないの」

 俺の手を引くその背中を、全然俺がついていけない世界に連れ出そうとするその背中を、それでも追いかけた幼い俺。外の世界なんて必要なかったのに。

「ねえ、俺のこと、好きって言ったのは、それは何番目? 俺はいつでも君が一番だった」

 大事にしてるという言葉の陰、いつでもその他を優先する君。俺が、すっと身を引けば明るい日の元へ駆け出して行ったというのに。

「俺なんて置いて街に出て、その時もただ笑ってた」

 いつだって、自由で、純粋で、何かに左右されるなんてこともなく、いつもそれを見ているだけだった。そして、胸に積もったこの想いも、伝えきれず宙に浮くだけ。街に出るという彼に、連れて行ってとも、行かないでとも言えなかったあの日に、俺は囚われているのに。友達だから、大丈夫だろなんて、なんて身勝手。暗い部屋に光を与えてしまったのは彼で、一度手に入れてしまった光のない生活には、もう戻れない。ああ、なんて残酷。

「俺のこと、憎んで、嫌って、お願い、俺のこと見てよ。どこにも行かないで。あんたがいなきゃ、生きていけない。

でも、あんたは、俺がいなくても、」

 ガラス玉の瞳には、俺のどうしようもなく歪んだ顔。一人取り残される俺は、彼を待つことしかできない。俺を見て、などと言えない俺は、ただ、彼が振り向くのを待つことしかできなかった。

「置いてかないで、捨てないで」

 俺なんか、必要じゃなくなる日がいつ来るのかびくびくしながら、その背中を見つめていた。一緒にいてもらえるだけで、十分なはずだった。追いすがって嫌われたくなくて、ただ、その背を見送ったけど。俺は、置いていかれたと絶望した。同時に理解した。やっぱり俺なんて必要なかった。

「憎んでくれ、俺をずっと、その目に、映していてくれ」

 その細い体を抱きしめる。

「…………っ………!」

 こんなにぴったりくっついているのに、彼の温かさが、解らない。撫でて欲しい。愛を囁いて欲しい。キスをして、抱きしめて。けれどそんなの毛頭無理な話。だから俺は彼を縛り付けて離さない。彼の鎖を外してしまったら、彼は俺の手には二度と入らない。

「エヴァ、愛してるよ」

 もう二度と手に入らないようなことをしていて、そう呟く俺を、彼が許すはずなど、ない。嫌われたくないなんて、都合のいい言葉は、言えない。

「もういっそ、俺のことなんか、殺してくれ」

 殺して、エヴァだけのものになれたら、もう不安になんてならないのに。けれど、その両手が自由だったとして、彼の指先が俺に触れることなどないだろう。だから、俺はその首に手をかける。ちゃらりと鎖が鳴る。首輪の少し上を、両手で緩やかに締めていく。苦しそうに喘ぎ開く口。奥深く銜え込んだ熱を感じながら死んでしまいたい。殺してしまいたい。嘘、死なないで。
 

「馬鹿かお前は」

 

 暗い部屋に、光が差し込んだ。振り返れば、扉に寄りかかる神居と、パートナーであるイガード。驚きに手の力が緩み、エヴァが咳き込む。

「馬鹿だ馬鹿だとは思っていたけどよ……手に負えねぇよ。助けきれねぇ。だからな、うん」

 彼にしては珍しい、煮え切らない発言をしながら近寄る神居に肩を掴まれる。振り払おうとするが、その力は今まで感じたことのない強さで、あっという間にエヴァから引き剥がされた。神居に押さえられている間に、イガードによって外されていく首輪、手錠、鎖。それらが音を立てて床に落とされていく。ここに来た時より痩せたエヴァは、俺に背を向け落ちていた服を身に纏った。その彼に、イガードから三枚の紙が渡される。一枚は、彼の奴隷権利書。そして、新しい身分証。最後は。

「あんたの資料は本当によくできてるよ。おかげで奴隷をやめられた。しかも資料の中にあんたの奴隷からの依頼も入ってて、こちらとしては商売繁盛だ、ありがとう」

 彼は冷たい声で、侮蔑の目を向けながら俺を嘲笑った。盛大な皮肉に、俺はただ呆然とする。いつの間にか、エヴァは、外に助けを求めていたのか。俺としたことが、資料にそんなものが混じっていたとは。

「アンタの資料は完璧で、簡単に身分を変えられた。奴隷から平民になれるなら、逆はもっと簡単だ」

 イガードは口元を歪めた。最後の一枚は、俺の奴隷権利書だった。俺は、もう何をされても文句を言えない身分になったということだ。

「さぁ、イヴさん、どうする? 売っても仕返ししてもいい、あんたの奴隷だ」

 尋ねたのは神居。奴隷制度を誰より嫌う彼らしくない発言にただ驚く。エヴァは背を向けたまま、自らの奴隷権利書を細切れに何度も何度も破いた。

「俺は奴隷なんて要らない。適当に処理してくれ」

 白い紙が宙に舞った。その白と同じ潔さで、俺には何も残さずにその背が遠ざかる。嫌だ。彼が二度と目に映らない。二度と触れられない。会えない。

「嫌だ! 嫌だ、誰かのモノになんて成りたくない、それなら殺してくれ! 置いていかないでくれ」

 神居に取り押さえられながら必死に手を伸ばす。指先が腕にかすり、なんとか服の裾を捉える。彼の足元に跪き、叫び、懇願する。

「エヴァ、エヴァ! 俺のことを、こっちを、見てっ」

 彼はゆっくりと、体をひねり、俺を見下ろした。俺を、俺を、とうとう、俺のことを。

「あぁ、あぁ、ああああああああ!」

 小さく悲鳴を上げる俺の前に彼は膝を突き、ところどころ鱗に覆われた頬を挟んだ。感情は読めないものの、確かに俺を見る瞳に、熱い手のひらに、動悸が激しくなり、息が止まり、死んでしまいそうだった。頬を伝う涙が彼の手を濡らしていく。今、目に映る景色が、彼が滲むのが忌々しくてしょうがないのに、涙がとまらない。

「絶望したか。視線一つでそんなに嬉しそうな顔して」

 そう言いながら彼の手が、床の首輪を拾い上げる。首に、冷たい感触。繋がった鎖が強く引かれる。

「いい様にしてくれたお仕置きは、しっかりしてやる」

 鎖の先に、彼の指。紅い瞳には、悲愴でありつつも、狂気に満ちた薄気味悪い嗤いを浮かべた自分が映っていて、間違いなく俺は、彼のものだった。服従し屈服し、それに対して悦びを覚えていた。

 彼がお仕置きと称したそれは、俺にとってはご褒美でしかなかった。卑猥な言葉を口にさせられ、泣きながら彼をねだってもまだ与えられず、散々焦らされ、息も絶え絶え。指が、容赦なく中を掻き回す。

「ふぁっ」

 いつもなら余計なことを言っているが、その体力すらもない。快楽に耐えかねて噛み付いた指から血の味がする。その血の味と痛みで感覚を保つのがやっと。その手を彼の手が掬う。不愉快そうな顔。

「あーあ、鱗剥がれかけてる。これじゃ痛いだろ」

 一部だけ残してぶら下がった鱗がその唇で挟まれた。

「……ひっぅあっ……! ったぁぃ……」

 鱗がビッと勢いよく剥がされた。あまりの痛みに視界が歪む。血のついたそれを、彼は口内に入れ、音を立てて噛み砕いた。そして流れる血を舐めとった。ぴりぴりとした痛みが走る。喰われる、と本能的に思い、それもいいかもしれないと、痛みを忘れて恍惚とする。

「お前には、お前を傷つける権利はない」

 腕を背中に誘導される。素直に抱きついておけ、と囁く彼の目には俺が映っていた。浅ましく彼を求める俺を、困ったように見る瞳には、憎悪も拒絶もない。困惑して唇にキスをしても、抱きしめても彼は受け止めてくれる。

「……や……ぁ……」

 ひぐっと喉が鳴った。涙が溢れてくる。初めて恐怖を感じた。何がかは分からない。けど突然怖くなった。

「や、あ、見ない……で……やだ、やだぁっ……」

 必死で顔を肩に埋める。それは許さないとばかりに内壁を擦り上げられ、仰け反る。耳元で、余計なことは考えるなと告げる声。耳元にかかる吐息に体を震わす。ずるり、と指が抜かれる。抜かないでとばかりに指に絡みついていくのを感じる。その指が、尻尾を撫でた。そのままひたり、自らの尾の低い体温がそこに当てられる。

「え、や、嘘、ひあああああっ!」

 制止の声など露程も意味を持たず、冷たい塊が押し入ってきて、その冷たさに内壁がひくつく。逆に内側を荒らす尾は、その熱さや絡みつく粘膜の感触を伝える。元々敏感なそこに、触覚が発達した尾の快感が加わり感覚がぐちゃぐちゃになる。快感に尾を締め付け、その感触にまた感じる。神経の回路がおかしくなりそうだった。エヴァにしがみつき、許しを請う。

「あっ、ああっ、ひ、……も……ゆる、してっ」

 エヴァは、ただ、笑うだけで取り合ってくれなかった。結局彼が手を止めたのは、声も枯れかけてきた頃。

「ふっ……ぅうっーっ……も、や……だぁ」

「一人でヨくなって。もう、俺は要らないのか?」

 挑発的な笑みを浮かべた顔。抱きついて、全力で首を振る。欲しくて堪らない。奥底まで犯して、犯し尽くして、体内に精液を注いで欲しい。全部欲しい。精液の一滴すら惜しい。全部俺の中に溶けて消えればいいのに。

「淫乱」

「い、い、いいからぁっ……全部っ、ちょ、だいっ……!」

 詰られても、快感しかない。ようやく一番欲しかったものを与えられる充足感。そして、支配される快感。最初からこうしていればよかった。支配するのではなく、全て彼のモノになってしまえばよかった。彼から離れられるはずもなく、それは呪縛のように俺を縛るのだから。モノにされる快感に打ち震え、恥ずかしい水音に耳から犯され、ずぶずぶに蕩けた脳は、考えることを放棄する。幸福感の中、彼を感じることだけに意識をやった。彼の手が、伸ばしっぱなしの髪を梳き、頭を撫でる。

「アダム、本当にお前には俺しかいないな」

 その言葉は、恐らく馬鹿になった俺の脳が聴かせた幻聴だろう。そして、愛がこもっているように感じてしまうのは、俺の哀れな幻想だろう。その顔が愛しさに満ちている気がするのは、きっと、涙で視界が歪んでいるからだろう。

 夢なら、覚めないで。



 

「ったく、俺とはヤる度吐くし、触られるのすら嫌がってた様な奴があんな顔しやがって。はー、俺は代用品かっ」

「……奈央」

 イガードは複雑そうに眉を顰める。おっと、まずいことを言ったとばかりに神居は苦笑した。そして機嫌を取るようにその手の甲に軽くキスをする。

「でも、お前といられて最高だから、むしろ感謝か?」

「バカタレ」

 そう言いながらも、彼は笑みを取り戻す。

「でも、あのイヴって奴も役者だな」

「そう思うなら、アダムのイカレっぷりに当てられたってとこだろう。そんなにキチガイばかりいても困る」

 神居は、彼の性格を思い苦笑する。大事にしてやらないと振り向かない癖に、お節介すらさせてくれない自暴自棄さ。人の体温を欲しがる癖に、与えたところでこれっぽっちも信用しない。自分にちっとも自信がない。

「まー、イヴが怒ったフリして、支配してやって、ようやく安心して居られる場所になったんじゃね」

 そんなどうしようもないものでもなきゃ、気持ちひとつも受け取れないような男だから、と神居は笑う。

「これで、よかったのか」

「エデンの園を追い出された話、知ってるか?」

「ん? あれだろ、禁断の果実」

 質問を無視した唐突な話に、イガードは首をかしげる。

「そう。今回のは、アダムが蛇で、イヴが禁断の果実だったってだけさ」

「意味がわかんねぇよ」

 神居は一人楽しそうに笑った。

 イヴは、蛇によって正気を失い、アダムを唆す。けれど、イヴ自身が禁断の果実だったら? 蛇でいるつもりだったアダムは、禁断の果実を口にしたがために、イヴと共に地に堕ちた。蛇は地を這う呪いを受けた。

「なんでイヴは、アダムと居るのを選んだんだ」

「アイツ結構可愛げあるからな。監禁強姦とかイカレてるけど、あんなに必死で求められてほだされたんだろ」

 再びヤキモチでむっとしているであろうイガードを引き寄せ、キスをする。

「まぁ、物語の終わりはいつもお決まりだろう?」



 

 めでたしめでたし、ってね?

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