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世界が真っ白な紙で出来ていたら

 

 

 

 

 

 空から舞い降りてきたそれは、俺にはらはらと降り注いでさらさらと音を立てて床を叩いた。それは透明で砂時計が落ちるような、それでいて風鈴が風を受けるような音だった。透き通って様々な色に色づいた結晶が光を乱反射して、きらきらと目を刺した。

 

 

 やたら白い建物が並ぶこの世界は、白すぎて俺には生きにくい。綺麗で整いすぎて、息苦しい。だからという訳じゃないけれど、俺は世界を穢して生きる。握り締めたナイフから滴る血を、腕のスナップを利かせて払う。白い壁に鮮やかな模様が浮かんだ。地面の血溜りに倒れた男を避けて歩く。血に塗れると、犯人だとバレる確率が高くなる。ナイフを後ろ手に放り投げ、手袋を外して持っていた袋にしまう。

 本当なら、死体の処理までしっかりと出来れば足がつくこともないのだが、残念ながらそんなスキルは持ち合わせていなかった。だからしょうがなく、明らかに大事になるのを承知で死体をそのまま放置してその場を去る。仕事の後にまずやることは、いつも同じ。仕事を斡旋してくれる地下のバーに、次の仕事の請負と合わせて酒を呑みに行くことだった。

 

 

 モスコミュール、ギムレット、マンハッタン、バラライカ、シーブリーズ、ブラックルシアン。何杯酒を入れただろうか。味なんてもう分からないけれど、俺は更にマティーニを頼む。

「もうホントさぁ、やめられるとか思ってねぇけどさぁ」

 たまたま隣に座って話をしていた男に絡む。男は特に面倒くさがるでもなく、穏やかな顔で話を聞いてくれていた。そのせいで余計に話も酒も進んで、今こんな具合に泥酔している訳なのだが。

「もう、仕事なのか、好きなのか、嫌いなのか、逃げたいのか、諦めてるのか、良くわかんねぇ」

 いつもこんなんだから、放っておいてもいいよ、とバーテンが男に話しているのが聞こえる。体を支えるのも、グラスを持つのも億劫になっている俺は、反論するでもなく机に臥せって男の顔を伺う。彼は相変わらず優しく笑みを浮かべて話を聞いていた。それに気を良くすると、彼の手が目を覆った。厚くて大きな手。じんわりと伝ってくる彼の温度。肩の力がゆっくりと抜けていく。思わず笑みが溢れた。

「こんな現実に、目隠し?」

 ゆっくりと襲ってくる睡魔に誘われ、とろとろとした眠りの中に引き込まれていった。頭上でバーテンと男が話している声が聞こえたが、低いその声は子守唄にしか聞こえなかった。夢も見ない、どこか白くすら感じる世界がゆっくりと体を包んでいくのが気持ちよかった。

 

 

 目が覚めると、そこには夜空が広がっていた。いや、正確には空じゃない、見ず知らぬ天井だった。深い青にキラキラと白や赤、黄色の星が散りばめられた夜の壁紙が貼り付けられていた。あまりのことにびっくりして、キョロキョロと辺りを見回す。間違いない。そこは見慣れた自分の殺風景な部屋などではなく、物は多いものの、整頓された見慣れぬ部屋。そして見ず知らずの男の背がいた。

「え、え?」

「ん?」

 ゆったりとした調子で振り返った男は、起きた、と言うように首を傾げた。

「っ、ったま痛ぇ……」

 冷静になって気づく頭痛。完全な二日酔い。ベッドサイドに、コトン、と水の入ったグラスが置かれた。無言で置かれたそれを、都合よく受け取って喉に流し込む。酔い覚めの水は甘露。喉の渇きによって甘くすら感じるそれを飲み下すと、胃から全身にその液体が染み渡っていくのを感じた。心なしか、頭痛もマシになった気すらするから、本当に水って偉大だ。ふっと顔を上げると、男が太い眉を少し下げ、心配そうにしていた。

「あ、あんた、昨日の」

 ようやく、記憶が甦り始める。さぁっと頬が赤く染まったのを感じた。バーの従業員にならともかく、よく知らない相手にああいった醜態を晒したことを思い出すと、羞恥心で死にたくなる。固まったまま、青くなったり赤くなったりしていると、彼の手が頭に乗せられた。おっとりとした笑みと、やたらに体温が高い手。

「何か、食べれそうですか」

 あ、この声。じわりと染み渡るような、低く渋みのある声。けれど、彼はあまり喋らなかった。元より無口なのだろう、勿体無い、と昨日も思った覚えがある。その喋り方は、動作や雰囲気と同じ、世界の時間がゆっくり流れているような独特のもの。やることなすことが特別遅い、という訳ではないのだが。そう、いうなれば丁寧なのだ。ぼんやりそんなことを考えていたら、彼は困った顔をして首を傾げた。

「あ、うん、ごめん、軽いものなら、多分いける」

 そう言って、ベッドから起き上がる。机の上には、トマトを使った冷製パスタと、かぼちゃのスープ。明らかに手作りと思われるそれは、縁に綺麗な模様が描かれた皿に鮮やかに盛り付けられていた。パスタの黄色、トマトの赤、かぼちゃの橙、パセリの緑。

「すごいな……これ全部あんたが?」

 いただきます、と呟いてカップを取る。じんわりと暖かいそれを口に含むと、きっちり裏ごしされていて舌触りがよかった。かぼちゃの甘味が活かされた、薄いけれどしっかりとした味付け。ほとんどなかった食欲が戻ってくる。冷製パスタにも箸をつける。つるつるとしたオリーブオイルと水気、それに新鮮なトマトが二日酔いでも喉を通りやすく、無理だと思っていたのに、いつの間にか完食してしまっていた。

「ご馳走様です。美味しかった」

「それならよかった」

 男は、嬉しそうに笑った。片付けをしている男を見て、はたと気づく。そもそも、この男は誰だ。

「俺はナイン。アンタは?」

「レイ・セプトローグ」

 堂々と偽名を名乗る俺に、彼はフルネームを答えた。まあ、だからといって本名を名乗っているとは限らないのだが。迂闊に本名を名乗ると、魔術に奇術、果ては呪いまで、この世界では悪用される可能性が高いのだから。そんな俺の思いを読んだように、彼は苦笑した。

「本名です。そして、僕の能力です」

 意味が分からない。そんな顔をしているだろう俺に対して彼は至極真面目な顔をして、それでいて世界を憂えるように言った。

「零だなんて名前のとおり、僕は、モノを消せるんです」

 

 

「レイちゃん」

 彼は頷いて、血に染まった男をそっと撫でた。まるで愛する人にするように優しく触れていた。その男に嫉妬するほど。そして、片膝を付き、目を伏せて触れるその姿は、何かに祈るようでもあった。真っ赤な血にその手は汚れているのに、綺麗すぎる光景だった。

 ふわり、と全体がぼやけて白くなった気がする。瞬間、彼の触れた死体が崩れ、白い光のようになって消えた。同時に、俺が使ったナイフや、掌に付いていた血も同じように消えた。代わりに、空からぱらぱらと何か分からない結晶が降ってくる。雪のようにも見えるそれは、しかし透明で、光を反射して何色にでも輝いた。その光景は幻想的で、地面で祈りを捧げる彼をそれまで以上に神聖に見せた。俺は、ただそれを見つめている。落ちた結晶をレイは拾い、大事そうに抱えた。それを見て、どこか胸の痛みを感じて、ようやく俺も動き出せる。

「行くか」

 もう一度掌を見返しても、地面を見ても、血の跡はどこにもない。レイ曰く、彼がモノを消した証、それがあの結晶だというのだ。よく分からないが、実際目にしてしまうとそうなのだろう、としか言えない。それを知ったあの日から、俺はレイとタッグを組んだ。持ちかけたのは、レイの方からだった。

「ほんと、お前が処理してくれるから仕事楽になったわ」

 後片付けもなくなり、足がつくこともない。全て彼が消してくれる。証拠を気にせずに仕事をすることができるようになった。けれどそんなことよりも何よりも。

「レイちゃん、今日、飲んでもいー?」

 へらり、と笑うと彼の手がすっと伸びてくる。ぽんぽん、と頭を軽く叩かれる。ふっと少し翳った笑み。少しだけ罪悪感を覚えつつ、笑みを返していつの間にか自分の家にもなってしまったレイの家へと帰った。

 

 

「レイちゃん」

 酔っ払った振りで、ぎゅっとその腰に抱きつく。上目に伺うと、少しだけ悲しそうな顔をした彼が頭を撫でてくれる。その顔を見ると、胸が締め付けられて痛い。暗殺を行った後の胸の苦しさと合わせて辛い。思わず涙が浮かぶ。

「レイちゃん。れーちゃん。ねぇ、俺、こんな真っ白な世界で、世界を汚すことしかできなくて、汚してかなきゃ生きていけなくて、辞めることもできなくて、レイちゃんにこんな顔さしてっ……」

「メビウス」

 彼しか呼ばない俺の本当の名前。なんで教えてしまったかよく分からない。けど、相棒として仕事をするようになって、こうやって醜態を晒し続けて、その度飽きもせず俺を慰める彼に呼んでもらう名前は、そっけないコードネームでは物足りなかった。

「メビウスなんて、無限を意味するような名前も、俺には不釣り合い。汚すことでしか生きてけない俺には。人を殺して生きる俺には、」

「僕にとっては、君はそれだけの価値がある」

 嗜めるような声色。腰に抱きついているだけじゃ足りなくて、首に腕を回す。膝の上に乗るように抱きつくと、背中に手が回った。大きな手が背中を撫でる。もう片方の手が髪を梳く。包まれているような気持ちになる。

「れーちゃ」

 最後まで言い切るより先に唇を塞がれる。そっと触れるだけの優しいキス。いつもとは逆に見下ろしている彼の顔は、寂しそうで、思わずきつく抱きしめた。

「レイちゃん、もっと呼んで。もっと抱きしめて。もっともっと、俺のこと、見て、俺が此処に居てもいいって教えて」

 耳元でそっと、抱いて、と囁く。髪を梳く手がぴくりと動いた。膝の下に手が入れられ、ゆっくりと、けれど軽々と抱え上げられ、ベッドに体が横たえられる。

「メビウス」

 耳に触れる息が熱い。丁寧な口調で、いつもはしっとりとした声に熱が籠る。それだけで胸がドキドキする。低く落ち着いた声が、今はジンと体の芯に届いて体温をあげる。全然落ち着けない。人を殺して、真っ白なこの街を赤く染めて、真っ赤な手は、血が染み付いて、乾いて、茶色く、黒く汚れて行く。そんな俺を綺麗に、真っ白にしていってくれる。

「俺ね、親、いないの、でも、すばしっこいから、ご飯は盗めたんだよね。で、今は生きるために、人殺してる」

 優しく触れられながら、くだらない話をする。

「辞めることできないの。真っ白なこの街が気持ち悪くて。殺すのが、嫌なのに、殺さないと押しつぶされそうになるの。なんで生きてるの。真っ赤に染まった街見て、安心して、真っ黒な俺の手見て、気持ち悪くなるの」

 顔を胸に埋める。涙が染みて、服がそこだけ色を濃く

変えた。彼の愛撫が体に入った力を優しく緩めていく。

「僕も、君と同じことをしているのに」

 穏やかに、レイは言う。けれど彼と自分では違った。彼は俺の絶対で、俺を癒してくれて、そこにいるだけできっと誰もが安らぐ、そんな人で。そんな人が世界を汚すだけのはずがない。俺とは違って、世界を綺麗にしていくのだ。全然違うというように首を振った。

「レイちゃんは綺麗。すごく綺麗。俺は、世界を汚すけど、レイちゃんは、俺なんかじゃ汚せない。いつも汚しちゃいそうで不安になるけど」

 それでも、傍にいていいの。そんな不安は喉の奥に引っかかって止まる。どれだけ俺がすがっても、彼の心も、体も汚せはしないのだけど。こんな俺が傍にいていいんですか。いつか置いて行かれそうで怖かった。彼は、どこか儚い笑みを浮かべるから。

「僕は、メビウスの色になら染められたい」

 降り注ぐキスの雨。彼の指先から、唇から、触れたと

ころ全てから自分を浄化していく気がする。真っ黒な部分を白く変えて、そして熱を灯らせる。

「無理。それより先にレイちゃんが俺を変えてく」

 殺した相手を消したように、俺の汚い部分も、全部白い光に変えていく気がする。ホッと息を吐く。それに安心したようにレイも笑って、熱い手で両方の頬をはさんでキスをした。徐々に深くなるそれに舌を絡めて応える。

「もっと」

 手を伸ばして、指を絡めて、口付けて、抱き合って、繋がって。

「れーちゃんだいすき」

 きっと俺の顔はだらしなくとろんとしていて、彼を受け入れる幸せで、上気した頬を緩めて、恋する乙女みたいな顔してる。荒い息が重なることや、余裕のない表情を見せること、それらが全部俺だけのものだってことが嬉しくて、こんな素敵な人が傍で笑っているのが嬉しかった。こんな俺が、ここにいる意味。

「メビウス」

 レイの声が、俺の存在をこの世界に縛ってくれる。

 

 

キスをして、余韻を楽しむ。情事後の独特の倦怠感と、うっとりとするような眠気。その腰に腕を回しながら、眠りにつく幸せ。

「あれ、レイちゃん、痩せた?」

 うとうとしながら尋ねる。もともと筋肉質、という訳ではなかったが、全体的に少し肉が落ちた気がした。そう、というように首を傾げるのを見て、目を閉じる。勘違いだろう。

「メビウスは、最近ちゃんと肉が付いて安心した」

 それはレイちゃんのご飯が美味しいから、と返そうとして眠気で断念する。眠りかけた俺の頭を撫でる手。寝るまで喋っていてくれる声。全部、好きだから、どっか行かないでね。

 

 

「レイちゃん、レイちゃん!」

 レイの顔がふっと上がって、眉が下がる。最近、レイは俺の話を聞いていないことが増えた。正しくは、気づかないこと。上の空、とはまた違う。本当に気づいていないのだという顔をしている。とうとう捨てられるのかと思って不安になるけれど、俺に対する態度はそれ以外は丁寧で真摯で、優しい彼そのもの。

「レイちゃん、じゃあ、いくよ」

 ナイフを握り直して、目の前の路地で歩く男の首筋を掻き切る。ぬぶっと、刃物が人の肉に食い込む感触。引き裂くと、血を撒き散らし、あたりに赤い湖を作り、白い壁を染め上げて、鮮やかな絵画を描く。ぞくぞくと登ってくる快感にも近い安心感。俺は、生きてる。そして、ぐるぐると渦巻く嫌悪感にも近い罪悪感。俺は、なんで生きてる。

「レイちゃん」

 彼の指先が触れれば、それが全て光となって溶かされる。だから、安心する。許されるはずのない俺が許されているみたい。

 いつもみたいに家に帰って、気持ちを吐き出して、抱き合って、また明日を迎えて。バカみたいに当たり前の日々。そんな日が、続くと信じて疑ってなかった。

 ずるり。家に付いた途端崩れ落ちた体。驚いて必死に体を引きずってベッドにあげる。その顔は真っ青で、でも、いつもと同じ穏やかな笑みを浮かべていた。

「レイちゃん、ちょっと、大丈夫なの」

「大丈夫だから、メビウス、聞いて」

 全然大丈夫じゃなさそうな彼は言う。彼は両手を俺の首にかけて、抱き寄せた。明らかに、いつもより遅い、力ない動作。それでも、俺はそれに従い、ベッドに上がってその腕に収まった。

「いつもあのバーで飲んだくれてる君を、綺麗な人だと思ってた。でも、いっつも荒れてて、どうしたんだろうって。一緒に飲んだ時に、なんて言ったか覚えてる?」

 覚えているはずがない。泥酔していたんだから。

「忘れられないような声してるねって、言って笑ったんだ。その笑顔がびっくりするほど可愛くて、ずっとそんな笑顔で笑ってて欲しくなった」

 そんなの知らなかった。いつの間にか恋人になっていて、俺なんかのどこがいいんだろうと思っていた。

「ねぇ、メビウス、僕に君は色々なものをくれたよ。一緒に過ごす楽しさも、好きな人を想う寂しさも。今の僕は、君が創った。僕の世界は、君の色で満ちている」

 彼は笑う。今までで一番綺麗な顔で笑う。

「僕の力は使うほど強くなって、いつ自分が、自分自身の能力で消えるか怖かった。全てを真っ白に消してしまう僕の力が怖かった。でも、もう大丈夫」

 笑って、と言って彼は笑う。ずっと笑ってて、と言って、彼はキスをする。嬉しくて、涙が溢れてきた。でも、笑ってなんていうから、無理やり笑顔を作った。

「僕は、君と出会えて幸せでした」

 そんな過去形にしないで。君の大好きな声がたくさん聴けるのに、寂しい。

「君を苦しめるものが、全部消えてしまいますように。君を悲しませるものが、全部無くなってしまいますように」

 そっと目隠し。辛い現実に、目隠し。

「やだ、消さないで。嫌だよ、いなくならないで、ねぇ、痛くても苦しくてもいいから、それだけはやめてよ」

 君が居なかったら、生きていけない。

 

 

「好きだよ、好きなんだ、愛してる」

 

 

 それは、俺の声? 君の声?

 

 

 目の前に、見慣れた部屋があった。

 どこからともなく、キラキラ輝く結晶が降ってきていた。それは光を乱反射して、虹色に輝いた。床に落ちては涼やかな音が鳴る。思い出を閉じ込めたような輝き。涙が溢れて、止まらなかった。その結晶がなんなのか、俺は知らない。その部屋にあるものは、様々な色に彩られていた。透明な結晶がそれらを映した。赤、青、黄、緑、紫、橙、桃。色のないものなんてなかった。部屋にあるものは、全部二組。自分のものとは思えない綺麗な部屋。そこには穏やかでゆっくりとした時間が流れていて、すごく暖かった。

 なのに、足りない。

 俺は、メビウスという名前以外の記憶が何一つない。けれど、幸せだったことだけは、心に刻まれている。それが、哀しい。とても悲しくて、哀しくて、愛しくて。

 キラキラと輝く部屋に、ただ一人座り込む俺は、どうしてか涙が止まらない。大事なものが、一杯に詰められたその部屋に、幸せが一杯に詰まった部屋に、涙が溢れて止まらない。

「忘れない」

 何もかも、覚えていないのに。

「忘れられる訳、ないだろう」

 輝く、世界。真っ白な世界は、いつの間にか君の色に満ちた世界で、俺は、知るはずのない君を待ち続ける。

 

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