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愛を描く

 

 

 

 

 彼は、おそらく非常に弱い人間なのだろう。青年の肢体を眺め、撫で、ようやく納得したかのようにキャンパスを彩っていく男を眺め、青年は口元を歪めた。
「満足した?」
「まだだ。暖房をかけてあるとはいえ、寒いだろう。何か羽織っていてくれてもいい」
 いつからだろう、彼が「僕」を見なくなったのは。一枚カーディガンを羽織りつつ、青年は過去に想いを馳せる。少なくとも、はじめは彼は青年を愛していたはずだった。否、今も間違いなく愛してはいるはずなのだけれども。
「ユウ君、僕お腹空いたよ」
「もうちょっと待って、もう少しでアキの全てが再現できる気がするんだ」
 彼の心はキャンパスの上にある。そこにいるアキは触れても温度も、肌の滑らかさも、脈動も伝えてこないはずなのに。それなのに、彼は愛しさと必死さを押し出した顔でキャンパスを見つめる。
「ねぇ、僕とソレ、どっちが大事」
 そっと指させば、彼は怪訝な顔をする。
「アキは俺が知っている誰より美しい。芸術なんだ、だから、僕の芸術はアキによって完成するんだよ。アキは本当に芸術なんだ。分かるだろう」
 解るかよ、そんな言葉が出かかって止まった。ユウのアキを見る目は、確かに甘く、恋をするものだった。

 


 それでも、我慢していればその時間は過ぎる。キャンパスの前から去れば、彼の異常性はなりを潜めるとまではいかないまでもマシになる。
「アキは本当に色白で綺麗だなぁ。シミもキズもアザもない。顔だって。どうして俺が付き合えてるのか全然わからないよ」
 うっとりと陶酔するようにいう。その様子を見ている人がいたら、仲の良いカップルだと微笑ましく思うかもしれない。実際アキの顔は整っており、男も女も引く手あまただった。逆に、ユウの顔は中の中、平凡の中の平凡。特別不細工ということもないが、美形という訳でもない。唯一彼に特筆すべき点があるとしたら、彼の職業が画家であり、そこそこ売れている、というところ位である。ただし、いささか気味の悪い絵を描くことにより、受けの良い層は限られている。気味が悪いといっても、モチーフ自体はそれほど奇妙なものではないのだが。
 アキも彼の絵を、はじめは美しいと思った。
「そんなにその絵が、気になりますか」
 画廊で、ユウが声をかけてきたのがそもそものはじまり。アキは純粋にその絵を美しいと思い、頷いた。その絵の前に立ちすくんで、すでにかなりの時間が経っていた。ぼーっと見ていたというよりかは、その絵の隅々まで見たかったのだが、思いのほか時間をかけて見ていたようだ。
「あなたも、この絵が?」
 尋ねると、ユウは照れ、伏し目ガチになりながら答えた。それは、私の絵です、と。
「ああ、貴方が描かれたんですか、綺麗な絵ですね」
 微笑むと、彼はまるではじめて美しいものを見つけた子供のような目でアキを見て、それから頬を緩めた。彼の指先はもじもじと絡められ、シャイな人間なのだろうと思っていたら、次に出た言葉は思いがけないものだった。
「貴方みたいに綺麗な人に綺麗だなんて、これ以上ない喜びですよ」
 安い口説き文句のような薄っぺらい言葉だったが、ユウのほころんだ顔はほんの少し頬に赤みが差し、本心で物を言っているようだった。綺麗、色男、かっこいい、そんな美辞麗句は聞き飽きていたアキだが、その純粋な言葉に、思わず照れて目をそらす。
「いや、そんな、あの、ありがとうございます」
「気に入ったのなら、他にも今日持ってきていない作品もありますので、こちらに連絡してください」
 名刺には、幽鬼有希、と、画号のようなものがあり、その下に山本勇気、と本名が小さく書いてあった。どこにでもいそうな名前、どこにでもいそうな見た目。まさか彼が。
「すごく、エロティックですね」
 絵を見つめる。
 彼の描いた絵は、一人の少女のものだった。夜の中月に照らされ、カーテンの外をみる少女は青白くすけて見えるようで、その実しっかりとそこに在るした白い肌。その肌は溶けるようでいて、瑞々しくしかしハリがある。頬は少し上気している。どこか熱っぽい瞳。白い何も飾りのないワンピースから伸びた足はすらりとして美しい。
「何も、そんなエロティックな要素なんてないのに」
 どこか浮世離れして見える彼女は、彼女の美しさを全面に引き出してもらっているようにみえた。
「モデルがいるんですか」
「えぇ、私はあまり見ずに描くのは得意ではないので」
 彼は苦笑い。もう一度その絵を見て、アキは中の少女の心情を思い浮かべる。何を想って、彼女は外を見ているのだろうか。
「こんな風に描いてもらったら幸せだろうなぁ」
 その一言がそもそもの間違いだった。

 彼は、アキの絵を描いた。何枚も描いた。何枚も、何枚も、それこそ倒れそうな顔色をして、新しい絵が出来た、と言って出迎える時すらあった。はじめはアキも、その様子に熱心な芸術家なんだろうと思っていた。好ましく思い、体調に気を使うようにとたしなめたり諭したりということもした。
 しかし、ユウの情熱、いや、執着はそんなものではなかった。

「ユウ」
 それでもアキは、ユウにキスをする。
「ユウ、ユウ」
 抱き寄せる手をひらりとかわし、彼はアキを眺めながら再び筆を握る。
「いいよ、そのまま、そのまま脱いで」
 興奮した顔をしているだろう、そんな顔まで彼は描く。焦らすように、アキは一枚、一枚と、ユウを意識しつつ服を脱いでいく。ぱさり、ぱさりと服が下に落ちていき、顕になっていく白い肌。それを描き取ろうと走る筆。月明かりに照らされたアキの体を見たように、あの絵の少女も見つめていたのだろうか。そんなことを考えると、少しだけチリリと胸の奥が痛む。けれど、アキは同時に気づいていた。あの少女の熱に浮かされたような目は、この狂った空間に犯され、逃げ惑い、諦め、外を夢見た瞳だったのだろう。この狂った男を、受け止めた訳ではないだろう。
 ひたりとアキはユウの体に触れる。感触を確かめるために。肌を舐める。味を識るために。そして胸に耳を当てる。鼓動を聴くために。そして、じっとアキを見つめる。
「アキ」
 熱い吐息が漏れる。そしてその情熱を筆に乗せていいく。そんな姿を、愛されていると錯覚したあの日。今は虚しさしかそこにはない。
「ユウ」
「もっと呼んでくれ」
「ユウ」
「本当に、どこからどこまで美しいんだ」
「ユウ」
「今日こそ」
「ユウ!」
「大丈夫、今日こそ出来るから」
 そんなことはどうでもいい、だから、こっちを向いて。それすらも叶えられることはない。熱に浮かされた瞳。このどうしようもない空間から逃れるために、その名を呼べども、宙に浮いたSOSはユウの元へとは届かないようだ。
「ユウ」
 筆を取り上げ、口付ける。
「駄目だよアキ」
「嫌だよ」
 その体を床に押し倒し、もう一度キス。その体を抱いても、彼はアキを通して「何か」を見続ける。触れた指先から感じるのは「アキ」自身ではなく、何か別のもの。涙が出そうなのを堪え、アキは何度も彼を抱きしめる。

「アキ、解ったんだ」
「何が」
 憔悴していた。
「アキ、アキに一度描いてみたら解るんじゃないかな」
 突拍子もない発言。
 彼は、筆をもち、アキのシャツのボタンに手をかけた。
「何を」
「アキの体を、彩りたい」
 こうなったらどうせ話など聞きはしないだろう。そう思ってため息を吐きながら服を脱ぐ。全て脱いでしまえば、待ち遠しくてしかたなかったと言わんばかりにひたりと冷たい筆の感触。その手は震えていた。
 彼は、描いた。
 無心に、一筆、また一筆、色をアキの体に乗せていく。声をかけようにも鬼気迫るその表情に、とてもではないがアキは声をかけることができなかった。そして、出来上がったのは形のないもの。
 色が乗っているだけで何かを描くという訳でもなく、刺青でもいれたような模様があったり、ただ色が置かれているだけであったり、何か解るものはひとつたりともない。かきなぐられたようなそれは、アキ自身より、ユウを表しているようだった。情熱と、混沌と、そして少しの冷たさ。
「あぁ」
 ユウは泣きそうな顔をしていた。
「どうしたの」
 口を開けば、思いのほか自分の声はかすれて、震えていて、アキはぎょっとする。
「アキ、アキ、アキ」
「なんだってば」
 ユウは、とうとう涙を零しながら言った。
「俺はなんてことをしてしまったんだ」
 意味が解らなかった。アキの体に嬉々として筆を走らせたのはユウだったのに。ようやく、現実に戻ったのかとホッとしたのも束の間。
「俺はアキを汚して、こんな風に愚かにも余計な上乗せをして、手を出してしまったのに、でも」
 でも。
「それでも、アキはどうしたって美しい」
 ユウの涙を拭って、その指先で自らの色づいた体に這わせる。絵の具が溶けて滲んで、色を汚らしく混ぜた。その手で、そのままユウの頬に触れれば、指の跡がくっきりとその顔につく。それを見ても、アキの心はなんら動くことはない。ただ、汚いと思った。そして、体中いたるところにそんな風に絵の具が乗せられたアキも同じように汚くて、ユウが思うようなものではなく、ひどく滑稽なのだろうと思う。
「泣かないで」
 それでも、アキは笑う。
「べたべたして気持ち悪いから、風呂に入りたいな」
 風呂場へ向かう。シャワーを出して、その水の中に体を入れれば、足元には色々な色が流れ落ちて、混ざって排水口に流れていく。白、赤、緑、青、黄色、黒。それを見つめるユウの顔は、きっとまたいつもの狂気じみた顔なのだろうと、見るのをやめた。目の前には、濡れた髪が張り付いた疲れきった自分の顔。鏡に映る自分の目は、暗く澱んでいた。いつのまに、こんなに疲弊していたのだろうか。
 拳を振り上げる。がしゃんと大きな音がしたことも、手のひらが血だらけなのも、痛みも自らでは気づかなかった。ただ、殴りつづけた。自分を呼ぶ悲鳴も、体に絡みつく腕も、全部全部振り払って、気づけば手のひらも、体のあちこちも傷だらけだった。
「アキ! 何をやってるんだよ!」
「ユウ……」
 その腕に縋り付く。
「綺麗じゃない僕は、嫌い?」
「大丈夫、最近の医療は進んでるよ、どうしてこんなことを……」
 違う。そう言っても、聞こえないんだろう。
「ねぇ、ユウ、僕が、見えなくても僕が好きなの」
 手を伸ばす。丸く見開かれたユウの瞳に、指先が触れた。力がこもる。
「ユウ」
 その目を抉りとることは、できなかった。そんなことをしても、何も変わるとは思えなかった。
「ユウ」
「ユウ」
「ユウ」
「ユウ」
「ユウ」
 名前を呼ぶ。
「僕は、君のことが好きだったのに」
 体の横にぶらりと垂らされた手の痛みを、ようやく感じた。
「痛いよ」
「アキ」
「ねぇ、僕のこと、好き?」
 ドンと、彼の胸を叩く。彼のシャツの胸元に、血で紅い花が咲く。
「僕を見てよ」
 もう一度叩く。
「ユウ」
 ちゃんと、こちらを見て。
 何を言っているのか、解らないという顔。彼は、求める答えをくれなかった。
「なら、もう要らない」
 突き飛ばす。呆然としたユウの顔を、見下ろす。
「バイバイ」
 ハッとした顔。ユウの顔がみるみる青ざめていく。立ち去ろうとするアキの足をユウの指が捉える。
「何」
「待って、待ってくれ」
 それを払い、また歩く。また掴まれる。もう、ユウのことは見なかった。歩く、掴まれる。繰り返して、縋り付く腕を払いながら服を着て、そして玄関へ向かう。
「アキ!」
 無視
「アキ!」
 名前を呼ぶ声が、雑音にしか聞こえなかった。自分の足音が妙に大きく聞こえる。
「アキ」
 小さく、力なくなる声。
「アキ」
 そんな風に呼ぶな。暴言の一つでもはいてやろうと、最後にもう一度、振りかる。
「アキ、捨てないでくれ」
 涙でぐしぐしゃの、情けない顔で、這い蹲るユウの姿があった。
「俺のことを見ていてくれ、俺は、俺は」
 お前が居なくちゃ生きていけない。そう続けられた言葉に、反吐が出た。神のように崇められるのはもうたくさんだった。再び背を向ける。
「アキ!」
 しつこい。
「アキ、俺は、君が、好きなんだ」
 アキは、唇を噛み締め、足を止める。勢いよく振り返り、手を伸ばして、ユウの体を強く抱きしめた。こらえきれなかった。例え彼がアキを見なかったとしても。
「絵の中に僕は居ないんだよ。どれだけ僕を大事に思って絵を描いてくれても」
 僕は、そこにいない。そう呟けば、泣きながらユウが返す。
「だって、好きだから、ずっと描いて居たいし、思っていたいし、それを、キャンパスの上に、描いてみたかったんだ」
 ああ、なんと馬鹿な男を好きになってしまったんだ。
「嫌だよ、そんなものを通してじゃなく、ちゃんと僕を見てくれなくちゃ」
 抱きしめた体は確かに暖かいのだから。頬に触れる吐息は確かに熱いのだから。この涙も、手のひらの痛みも、流れ落ちる血も、生きているアキしか持っていいないものなのだから。
「その絵は、君の名前を呼ぶ?」
「呼ばない」
「愛を囁く?」
「いや」
「君は、誰が好きなの?」
「アキ、君が好きだよ」
 彼は、解っていなかった。

 


 それ以降、アキは人形になった。
 求める答えしか渡さない。最低限の行為、最低限の言葉、最低限の感情表現。
「アキ、最近おかしくないか」
「そう?」
 さすがのユウも怪訝な顔をしていたが、しばらくはそれでも日々がすぎていった。その時点で、いろいろと異常で、アキとユウの関係がいかに破綻しているかよく解った。普通なら、そこで関係が崩壊していてもおかしくないはずなのに。
「あぁ、やっぱりアキは綺麗だなぁ」
 のんきにそんなことを言っているユウもユウだし、そんな彼に対して能面のように対応するアキもアキ。結局、一番最初に異常をきたしたのは、ユウの絵だった。
「描けない」
 アキが知る中で、始めてユウは筆を落とした。
「あれも、これも、それもダメ」
 ここ数日でかきあげたと思しき作品を、ユウがカッターで切り裂いていく。アキは、それをただ眺めていた。ユウがスランプに陥ったようで、最近焦ったり苛立ったりしていたのは知っていたが、彼が自分の作品を壊しているのは、始めて見た。
「違う、これじゃない、全然違う。アキはこんなじゃない」
 ユウの手がアキの頬を鋏む。
「アキの顔は……」
 彼は、アキの顔を見て、表情を失った。
「アキ?」
 焦った声色。
「違う、アキはこんなんじゃない」
「違わない」
「違う」
 うわごとのように違うと繰り返すユウの手首を掴み、壁に押し付ける。
「何が、違うんだ」
 静かに、尋ねる。ユウはかぶりを降るだけで答えない。もう一度、ゆっくりと尋ねる。
「何が、違うんだ」
 彼は、恐る恐る目を合わせ、そして、くしゃりと顔を歪めた。泣きそうだった。
「アキの目は、そんなに冷たい色じゃない」
「ほかには」
「アキの声は、そんなに平坦じゃない」
「それで」
「アキの唇は、そんなにこわばってない」
「それだけ」
「アキは、こんなに乱暴に俺の手を掴まない」
 手を離す。
「これでいい?」
「アキは、アキは、アキは、いつから俺のこと、嫌いになったの」
 言葉は最後に行くほど小さくなり、やがて泣き声に変わった。嫌いじゃない、とは言わなかった。ただ、見つめていた。
「嫌いにならないでくれよ」
 しゃくりあげながら裾を掴む手を、離す。ぴたり、と泣き止んで彼は目を合わせて、口元を歪に曲げた。
「俺のこと嫌いでも、アキは綺麗なんだな」
 ひどく複雑な感情の混ざった声だった。
「綺麗だなぁ」
 ぽたぽたと再び流れ落ちる涙。
「やだよ。足りないよ。俺のこと好きじゃなきゃ」
 悲鳴が鼓膜を揺らす。握り締められ、震える手が憐れだった。
「どうして俺のこと好きじゃないアキも、綺麗なんだろうなぁ」
 しゃくり上げる肩をそっと抱きしめる。
「それを、恋って言うんじゃないかな」
 アキの頬も、暖かいものが伝っていた。それを見られないように、アキはユウの肩に顔を埋めた。

 


 ユウは、絵を描いている。未だに、陶酔したような顔をしてアキの絵を描く。表面上は、昔と同じ。
「ユウ、ご飯また食べないつもり?」
「ごめん、また時間忘れてた、昼食を取りながら休むよ」
 筆を置いたユウの指に、アキは自らの指を絡めた。
「いいの。完璧な僕を描くのに時間をあてなくて」
 ユウは困った顔をして笑う。
「こうして一緒にいてくれる現実の君以上に綺麗なものなんて、俺は考えられないよ」
 彼の今回の作品は、泥だらけになりながら、向日葵畑で満開の笑みを咲かせたアキの絵だった。

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