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​夢渡り

 

 

 

 

 

 

「あ、綺麗!」

 木津偲の彼女である雪が声をあげた。その指の指す方向には、赤く鮮やかな花。偲は口元を少しだけ緩めて頷いた。

「本当だ……いいな、花は好きだ」

 思わず漏れた言葉に、雪は目をぱちくりとさせた。

「意外」

 そう一言発して、雪は可笑しそうに笑った。彼女の笑顔は無邪気で、そこには悪意の欠片もなく、だからこそ偲はその笑みに傷つけられることになった。すぅっと笑顔が表面だけのものになる。

 偲は植物が好きだった。いつもぼんやりと通学途中の道に綺麗に植えられた花々を眺めていた。剪定をされ、まとまった躑躅、艶やかに咲き誇る薔薇、可愛らしい三色菫。気が済むまで眺めたい、そっと触れたい、思う存分手をかけたい、育てたい。そういった思いが偲の心の奥底から湧き上がってくるのだ。 

 でも、と偲はその度自身の手のひらを見つめた。偲は長身、筋肉質、その上目つきもよくは無い。花屋というよりはむしろとび職や大工を想像する見た目だった。花を扱う仕事というのは案外重労働ではあるが、どうしても華々しくたおやかなイメージが付きまとう。それに当てはまらない自身の存在に抵抗があった。小さい頃に友達に花好きを告げたが、似合わないと笑われるだけならいいが、引かれてしまったのもトラウマである。以来、偲は誰にも花好きを告げたことがなかった。

 告げない想いが心に募る。何も考えずに花を美しいと言えたら、花が好きだと言えたら、どんなにいいだろう、と彼女の言葉によって冷え切った心で思う。一瞬だけ、彼女から心がスッと離れた。一人の男に出会ったのは、そんな矢先のことだった。

 

 彼とは、本屋で出会った。ただし、その本屋は夢の中にあった。ただの夢だというのに彼のことが忘れられなかったのは、他でもない、彼の発した言葉があったからだった。

「イヌサフランの花言葉、知ってる? 頑固、だよ。君はそんなに綺麗な指をしているのに、どうして使ってやらないの。頑なすぎる」

 柔らかい動作で彼は手に持った本の花の写真をなぞった。線の細い、銀縁眼鏡のよく似合う青年だった。彼の容姿は涼やかと形容されるものではあったが、特に端整ということはなく、どこにでもいそうだった。しかし、不覚にも偲はドキリとしてしまって、彼のことが頭から離れなくなった。青年に自分の心を全て見透かされているような気がしたからだ。そして、夢から醒めた時、どくりどくりと心臓が脈打っているのを偲は感じていた。

 

「つったってよ、この見た目で園芸作業はねぇよな」

 むしろ、あんな見た目だったら、と、夢の中の男を思い浮かべ、一瞬後に偲は頭を振る。

「よ、木津! 後でサッカーしよーぜ」

「おー、分かった分かった」

 後ろから唐突に掛かる声に、偲はびくりと視線を道に戻した。なんとも無いフリで返事を返し、片手を挙げる。当たり前の日常なのに、どこか違和感を覚えた。

 

 意識してみると、その男はいつも夢の中に居た。いつも、というのは、本当にいつもなのだ。役は通行人であったり、友人であったり、その日によりまちまちではあるが、それでも常にその男は偲の夢に現れ続けた。それに気づいてしまうと、その男の存在が目に付くようになってしまった。

「あぁ、もう、お前うざいっ!」

 そう青年に夢の中で叫んだのは、それに気付いてからそれほど時間がたたないうちだった。今日は偲の親戚役として彼は夢に出演していた。

「……偲君、どうしたっていうの」

「何でお前が俺の名前を知ってるんだよ」

 青年は首を傾げた。くすり、という上品な擬音語が似合いそうな笑みだった。

「何でって、それは……君の夢だもの」

 成る程、それもそうだとは思うが、同時に疑問が湧いた。特に知りもしない男が常に出てくるというのはどういったことであるのか。夢だからしょうがないのか。今までにあったことなのか。なんで夢なのに、自分の質問にまるで現実のようにしっかりと論理の通った意味を成した答えを返すのか。一体全体どうなっているのかと。夢だ、と片付けられなかった。

「なんでお前、俺が知りもしない花言葉なんて知ってるんだよ!」

 穏やかな顔が強張った。青年の眉が寄せられる。あれ、と今度は偲が首を傾げることになる。青年はそんな顔をするようなタイプには見えなかったからだ。むしろ常に冷静沈着、穏やかかつ、優しげな表情を保つタイプに見えていた。

「……しくったなぁ……」

「何を?」

「何をって、そりゃぁ……僕がエキストラじゃないのがバレたこと、かな」

 仰々しく右手を前に、片足を後ろにして、芝居がかった動作で深々と頭が下げられる。

「申し遅れまして、私貴方のバクでございます」

「ばくぅ?」

「バク。夢喰いバク」

 夢喰い? 偲がそう疑問に思う前に、バクの指が綺麗にパチンと、乾いた音で鳴らされた。その瞬間景色が切り替わる。パチン、パチン、と鳴らされるたび、そこは海だったり、山だったり、見たことの無い外国であったり。そして、最後に現れたのは花の園。

「お望みは、コレ?」

「……すげぇ……」

 一面の花、花、花。竜胆、鈴蘭、桜に薔薇、季節関係なくそこには花が咲き誇っていた。偲は呆気にとられ、しかしその幸せすぎる状況に思わず満面の笑みが浮かんだ。

「ふふ、好きに堪能するといいさ、それでは」

 くるりと背を向けて帰っていこうとするバクの手を、偲は反射的に掴んだ。花は魅力的だった。しかし、それ以上にもっとバクに対して求めるものがあった。

「俺に花言葉、もっと聞かせてくれよ!」

「はぁ?」

 そう言った時のバクのあまりに間の抜けた顔に、偲は思わず笑った。

 

「しーのぶ!」

「よ、雪」

 にっと笑って額を小突く。

「ちょっ、何すんの!」

「いや、なんとなくからかいたくなった」

 偲がにやりとすると、雪の目が釣りあがった。ぽかぽかとちょっと手加減が消えがちの強さで背中を叩く姿は傍から見て暴力的なのか、はたまた可愛らしいのかは偲にはよく分からなかった。もう、といいながらその動作は唐突に終わる。

「なんか、偲、楽しそうだね」

「へ?」

 急に雪が覗き込んできた。突然のことに驚きながらも、確かに自分は最近毎日楽しくて仕方ないんじゃないかと偲は思い始めた。昼は友人と楽しくやり、夜は夢でバクに会い、夢の世界中を旅する。そして出会った花々の花言葉や特性をバクから学んだり、逆にバクに語ったり、そういう生活が偲を変えていた。

 夜と昼との二重生活は、どこか秘密を孕んでいて甘かった。友達も雪も知らない素の自分を、夢の中では解放できていた。あの場所では、自分が花をどれだけ愛でようとも誰も馬鹿にしないし不可解な顔をしない。

「んー、まぁ、ちょっと面白いヤツと出会ってー」

 そりゃよかった、と雪はちょっと微妙な顔で頷いた。

「どんな子?」

「え?んーと……こー、いわゆる優男?」

「あ、男の子か……へぇ」

 雪は今度は何か安心したように頷いた。追求されなくてよかったと思った。偲が夢の中で、バクなどという訳の分からない存在と楽しんでいるなどといったら、普通の人間には馬鹿にされるどころか下手をしたら精神病院送りであるからだ。そして雪に言われて気づいたことが一つ、偲はバクのことを何も知らなかった。

 

「バク!」

「はいはい、こんばんは、今日もいい夢見てる?」

「んなの、お前が一番よく知ってんだろ」

 偲がにぃっと笑うと、バクの目元も緩んだ。その視線は優しさに満ち溢れていて、まるで恋人か何かを見つめるようで、偲は息を詰めた。

「それで、今日はどこへ行きたいの」

「い、いや、あの、あのさ、バク、今日は花じゃなくて、お前の話が聞きてぇんだわ」

 妙に気恥ずかしい思いを抱えながら、偲は場所を移そうとするバクを呼び止めた。バクが振り返る。その顔は驚きと喜びに満ちていた。にもかかわらず、初めて会ったときと同じ種の違和感があった。

「僕の話なんて面白くもなんとも無いと思うけれど」

「それでも、俺はバクのこと知りたい。バクは俺のこと何でも知ってるくせに、俺はお前のこと何も知らないんじゃ癪だ」

「成る程、なら僕の話をしよう」

 バクの名前はシノブと言った。正式に言えば、木津偲さんとこのバク。だからシノブ。どうやって連絡を取っているのかは偲には分からなかったが、人間一人につき一体居る他のバクと連絡を取る時用の号のような物で、名前の必要性が無いらしい。面倒臭いから偲はバクと引き続き呼ぶことにした。そして彼は、バクという名前通り、偲の夢に出演しては悪夢を探し、それを食べているらしい。

「んで、どうしてバクは俺の知らないことまで知ってるんだよ」

「んー?今まで偲がチラリとでも聞いたこと見たことあることは全部僕は覚えてるから。それに、他のバクから聞くことも色々あるしね」

 僕は君であって君じゃない、とバクが冗談めかして言った。よく分からないが、バクの言うとおりなんだろうと偲は鵜呑みにした。なら、と偲は続ける。

「俺の心はどこまで分かっているんだよ」

「心?」

 ふっとバクは口元を歪めた。

「どこまでだと思う」

 偲には、確信があった。

「全部、だろ、どーせ」

 言い終わると同時に、ふわり、とバクの唇が偲のそれに重ねられた。不思議と同じ男だというのに、不快感を感じなかった。むしろそうしているのが当たり前のように感じられていた。突然のことなのに驚くこともなく、偲は自然とまぶたを下ろし、バクの背中に腕を回した。バクが偲の嫌がることをするはずが無かった。夢の中ではバクの思い通り、そしてバクは、偲の悪夢を食べているのだから、それが悪夢となるのなら記憶から消えているはずだった。

 唇を離した瞬間、バクがどこに持っていたのか知れない花を二つ、一つは偲の髪に、もう一つは彼自身の胸ポケットに飾った。偲には見た目も華やかな赤い花、自身には白くて小さな可憐な花。彼の胸ポケットを飾るその釣鐘型の花は彼の胸元に何の違和感もなく収まった。しかし、偲の髪に飾られたそれは、どう考えてもごつい男に似合うはずもなく、声をあげて笑った。それをバクはただ黙って微笑みを浮かべ、髪を撫でるだけだった。

 

「バクも同じ、なんだな」

 触れられた唇を撫でながら、偲は昨晩のバクの感触を思い出していた。しかし、夢の中の人、しかも男とキスだなどと、馬鹿ではないのかと腕を下ろした。偲にそちらの趣味はなかった。けれど、バクだけは別だった。包み込まれるような安心感があった。今日はどうしても浮ついた気持ちで、なんとなく通学路を変えていた。

 偲の視界にちらと見慣れない花屋が映った。季節の花や、植物でできた動物が飾られているような女の子が好きそうな店だった。その軒先においてある鉢植え。

「これ、バクがくれた……」

 思わずしゃがみこんで偲はその花を見つめた。鮮やかな赤が目に楽しい。店内に目を戻すと、偲が入り込むにはいささか可愛らしすぎた。それでもその花に惹かれていた。

 数分後、学校に行くにはいささかごつすぎる荷物を抱え、偲は歩いていた。ちら、ちらと不審者よろしく偲は左右を見て、知り合いがいないのを確認した後、鉢植えを購入した。勢いで買ってしまって持て余したそれを、自分の靴箱の上に置き去りにすることに決め、朝から図書室に向かった。

 

「アネモネ。花言葉は……赤い場合は君を愛す、か」

 アネモネは一体どんな花言葉を持っていただろうと、図書室で本を開いた。バクが伝えたかった事を知りたかった。そして、その花言葉が咲くように、大事に育てたかった。バクを撫でるような気持ちで指でゆっくり文字を追っていく。

「……偲」

 突然肩を叩かれた。驚いて勢いよく振り返る。眉を寄せて立つ雪がいた。酷く不機嫌な顔。これは相当機嫌が悪いなと思いながらも、偲には原因が全く分からなかった。

「さっき、手を振ったの気づいてくれなかった」

「え、あ、ごめん」

「最近いっつもそう」

 歪められた口、寄せられた眉、握り締められた手。怒っているような泣きそうなようななんともいえない顔。

「ねぇ……」

 何かいいたそうではあるが、何もいえないとばかりに雪は口ごもった。今度は怯えているような顔だった。よく変わる表情だなと他人事のように思いながらその顔をぼんやりと偲は見つめていた。意を決したように大きく息が吸い込まれた。吐き出す息と共に漏れる小さな声。

「…………誰か、他に好きな子、いるの」

「ぇ」

 突然のことに偲は唖然とした。こいつは何を言っているのだろう、他に好きな人だなんて、偲が雪一筋なのは雪が一番知っているはずだ、と考えた直後、ふとバクのことが頭をよぎった。数秒の間の後、偲は口を開いた。

「……いる訳ないだろ」

 一瞬の沈黙。雪の表情がとうとう消えた。

「嘘吐き……」

 反論の間もなく彼女はそこから走り去ってしまった。

偲にできるのは呆然とその姿を見守ることだけだった。開いたアネモネのページに書いてある花言葉、薄れゆく希望、の文字が目に痛かった。

 

「バク」

「落ち込んでるみたいだね」

「えー、あー、まぁ……」

 今日の雪の件で偲は想像以上にダメージを受けていた。雪が何を勘違いしたのかは知らないが、彼女を傷つけたのだけは理解できていた。それに対しても疲れてはいたが、何より精神を削ったのは、そのことに対して面倒臭いと思ってしまったことだった。確かに雪のことが好きなはずなのに、彼女を省みられない自分に偲はげんなりしていた。

「偲」

 すらりとした腕が伸びてきた。女の子とは違う骨ばった骨格、優しい手つきではあるのに、包み込まれるような力強さ。

「バク?」

「うん、ゆっくり休めばいいよ、今日は、花を見て歩くのはやめよう」

 抱きとめられる腕の温かさに偲はホッとした。ここは、肩肘を張る必要は無いところであると、大きく息を吐いて全身の力を抜いた。昨日と同じように重ねられる唇。回を重ねるごとにむしろそれは心地よさを増し、偲の体を解していくようだった。体を抱き寄せながら背中を撫でる手も同じだった。

 

「偲にそんなことできる要領のよさなんてないよね、ごめん、早とちり」

 結が泣き腫らした目でそうやって言ってきたのは一週間後のことだった。笑い顔は無理やり作っているもので、誰が見ても彼女が無理をしているのは分かった。彼女が心の整理をする間、偲の雪がいない心の穴を埋めたのはバクだった。それに気づいた瞬間、偲の心に罪悪感がよぎった。自身が傷を癒している間、雪は傷を抱えて重たい気持ちで過ごしていたのだろうか。

 居た堪れなくなって、目をそらして片手を出した。久しぶりに、手をつないで二人きりで帰ることにした。それは恐らく、罪悪感を埋めるための自己満足に過ぎないということは偲自身も気づいていた。たどたどしくはありながらも何とか二人で他愛の無い会話をしつつ帰ることができた。そこには愛があるはずだった。

 

「バクは俺のこと好きなのか?」

「好きだよ、あぁ、勿論恋愛感情も込みでね」

 事も無げにバクはしれっと答えた。分かっていることだった。それでも、偲の心の中に言いようの無い感情が込み上げてきた。一番大きいのは、喜び。けれど、それを覆い隠す罪悪感と、戸惑い。もしバクが好きだなどと言わなければ、偲はなんの迷いもなく雪の元へと帰れただろう。けれどバクが好きだなどというから。

 偲の口が勝手に開いた。

「             」

 告げてはいけない言葉を告げた。

 

「雪、勘違いさせるようなことをしてごめん」

 翌日に、雪に謝った。勢いで買ったアネモネは家の庭に置きっぱなしになっていた。

「俺、ちゃんと結のことが好きだから」

 偲は今まで付き合ってきた雪を選んだ。夢の中、全てをさらけ出せるバクではなく。現実に夢は勝てないし、異性に同性は勝てない。偲は、真っ当な選択をしたと自身で思っていた。

「俺は、いつでも雪一筋だから」

 

「雪一筋、なのに君は僕の手を取るの、ああ、なんて酷い人」

 結局偲はその晩も再びバクの腕の中にいた。

「……なんでだろうなぁ」

「知りません」

「俺、どうしたらいいのかな、でもお前のところって落ち着くんだ、でもさ、雪のとこに戻んなきゃ……」

 バクがふと微笑んだ。そして唐突に言った。

「……ねぇ、僕は悪夢?」

 優しい声色。

「いいや、まさか」

 反論。

「そうやってどっちを取るか悩むのに?」

 静かな吐息。

「悩んでも、俺はお前と居たい」

 強く抱きしめられた。

「僕はいつか、君の悪夢になる。君を悩ませる。悪夢の僕は、要らないでしょう」

 パチンと指が鳴らされた。目の前に真っ白な花が舞い散った、前バクが胸元に挿していた花だった。バクが耳元で囁いた。誰よりも優しく、愛に満ちた声だった。

 

――悪夢は皆僕が食べてあげる――

 

「偲!」

「何だよ、雪」

「見て、あれ綺麗! 何の花?」

「ん? あぁ、あれか……?」

 一年ほど前、図書室で偲が花の本を読んでいたのを見て以来、雪は頻繁に偲に花のことを尋ねるようになっていた。その当時は偲に浮気相手でもいるのかと、雪が大騒ぎしたのだが、今ではそれも偲にとっていい思い出だった。雪を不安にさせていたことに気づくことができ、今まで以上に雪を大事にしようと思えた。

「あせび、だな、可愛い花だよな、雪にぴったりだ」

 素直に雪のことを褒める回数も増えた。けれど褒めるたび、偲の心にちらと罪悪感がよぎる。理由の分からない不快感だった。それでも彼女を褒めるのは、彼女がそのたびとても嬉しそうな顔をするからだった。偲は勿論雪の笑顔が好きだったから、それが嬉しくて何度でも褒めた。

 雪との仲は、花の本をきっかけに更に深まったように思えた。隠していた花好きもすっかりバレてしまい、逆に偲の中の何かが吹っ切れた。今では堂々と表だって花を育てたり、教室に飾ったりしている。しかし、一つだけよく分からないことに、その頃から偲は花に触れる度どこか切なくなり、不安に襲われた。一番好きなことをしているはずなのに、胸がぎゅっと締め付けられるのだった。そして、その度に何かを思い出しかける。しかし、何も思い出せずに、どこかに何か大事なものを落としてきたかのような虚無感だけが残るのだった。

 今、ただ花を眺めているだけなのに偲の心は軋んで、どくどくと鼓動が早くなって、息が苦しくなっていた。

「あせびの、花言葉、だよな……」

 突然つないだ手の小ささに僅かな違和感を覚えた。目の前にあせびの花が舞い散る様子が突如浮かぶ。この風景はなんだったろうか。男物のシャツから覗く、白。

「あせびの花言葉は……犠牲、それから……」

 二人で旅をしよう、そう雪に告げたとき、偲は言葉を失った。全てを思い出した。今、ようやく彼の告げられなかった想いを知った。偲を思いやっての自己犠牲に隠された、本音。

「……偲?」

 雪が沈黙する偲の顔を怪訝そうに除きこんだ。偲はその目を見つめてはっきりと言葉を発した。

「お願いだ、別れてくれ」

「え、どうして」

「無理だ、雪とは、もう、無理なんだ」

 突然のことに戸惑い、後ろで偲を呼び止める雪をおいて、偲は駆け出した。会いたい人が居た。以前、曖昧な態度を取った挙句、恋愛対象ではないと、最低な言葉で傷つけ、それでも手を離そうとしなかった人物だ。自分を誰より受け入れ、愛してくれた人だ。だが、その人は今、どこにもいない。どこにもいるはずがない。それを知って、なお偲は走り続けた。走り続けて、ふと目に付いた花屋で、二つの花を買った。

 以前彼が贈ってくれた真っ赤なアネモネを再び、そして、今度は紫のものをもう一つ。花言葉がいつか愛する人に届くようにと。そしてただひたすら、こんな夢を見る日を待つのだ。いつの日か、こんな台詞が聞けるのを。

 

「貴方のバクです」

 

 

 

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